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まんこ独り語 〜性別という属性を捨て、楽になることを選びます〜 |
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まんこについては常々独断と偏見をもってでも、語らないと!と思っていたところで、丁度友人らがまんこアンソロジーを作ると言っていたので私も参加させてもらうことにした。 「まんこ」。それは、どこまでもつきつめて考える必要がある部位だと思う。文化的な意味は深くてあまりにも悲しい歴史と現状が今もあるし。性別に違和感を持たない女子でさえ、語らない事項をあえて、トランスに分類される私が語るのは、性別に向き合うわざるを得ない者として、むしろ必然かもしれない。正直なところは性別に違和感を持たない女子にもっと語ってもらってからの方が語りやすいというのはあるけれど。(でも、逆に女子がまんこに誇りをもって語るのが普通であればわたしはもっとまんこを嫌ったかもしれない。わかんないけど。) GIDという「疾患」に頼らずに、自分の身体と向き合うということは意外と難しいし、GIDという言葉が広まった最近ではなされてこなかったことと思う。少なくともわたしはトランスみたいな人が「身体違和」というGID用語を使わずに語るところをそんなに見たことがない。ていうか、なんでそんなことする必要があるかって?それは、わたしが文化をどのように身体に取り入れたかの検証でもあるからだ。アタリマエだけれど、GIDは文化にものすごい影響を受ける。FtMやFtXなどを含む、とりあえずのまんこ持ちたちが、まんこのどこがイヤなのか、どこに苦しめられているのかを「身体違和感」という問答無用の用語(思考の停止)を使わずに、まずは想うこと、語ることが必要だろ。 逃げずに語らない? そして、その結果はきっと、楽になることに繋がるだろう。 「身体違和感」という思考停止を選ぶならば、 死ぬまでそのまんこと「男のプライド」に悩まされるがいい。
●まんこについての思い出 最初にまんこを意識したのはいつごろだっただろう。幼稚園かそこらで母親と一緒にお風呂に入った時に、「丁寧に洗いなさい」とか、なんか言われたような気がする。「あぁ、ちゃんと洗った方がいいんやな」と思った記憶がおぼろげにある。その頃は自分のことはどうもオンナ性(おんなせい:ジェンダーとして女に属していること)ではないと気づいていたけれど、身体についてはあまり頓着していなかったと思う。ゼッタイにちんこが生えてくる、とも思っていなかったし、でもちんこは自分にも与えられるはずだという朧げな期待は持っていた。 身体的な違和感、これはイヤだ!まんこなんて嫌いだ!気持ち悪い!と思い始めたのはセックスがどういうものかを知ってからだったような気がする。小学校高学年とか中学あたりかな。そこらへんから「しっこを出す場所」から「性器としての穴」という認識が出てきたんだと思う。オンナ性(ジェンダーが女)であることと、セックスにおいての「穴」役という認識が一つに繋がった上に、自分がそれを引き受ける立場だと知って、「それはいやだ!無理だ!ありえない!」という強い嫌悪感になっていったような気がする。言葉にならない嫌悪感は言葉にならないだけに増幅していって、身体的な気持ち悪さに急激に変わって行った。(と思う。)私はこの嫌悪感に言葉を持っていなかった。まんこの「ま」の字も口に出して言えないくらいだった。それが18歳ぐらいまでずっと続いた。 そうやって「棒」に対する「穴」感覚がまんこを嫌がる大きな要因としてずっとあったわけだが、セクシュアリティ系のサークルなどいろんな人に会ったり、フェミニズムを勉強したりするうちに、まんこの史的な扱い(穢れとして扱われてきた・現在も)や、他人のまんこ感覚を知るうちに、私自身のまんこ観が随分変化して、イヤさが激減していった。まるで悪口ばかりを人伝に聞いて、そのせいで自分も嫌っていた人物が、ホントはいい人だったと知ったときのように。今考えるとわかりやすい。身体違和無しの女子でさえ、まんこについて語ることが許されない社会、つまり身体違和無しの女子でさえまんこを肯定的に考えられない状況下で、トランス(身体は♀)がまんこを公平に見ることなんてできるわけない。そこには身体違和無しの女子以上のウーマンへいティんグが隠されてしまうし、身体違和無しの女子以上に語れない鬱屈は、自動的に酷いまんこ観へと発展しがちだろ。 今となっては日常生活で語尾につけてしまうくらい「まんこ」を連発している(ヤラシイ意味ではなくむしろ愛着を込めて)が、そうなれたのも私の心境の変化とまんことの関係がよくなったからだろうと思う。ただいまんこ。
●生理について まんこと言えば避けて通れないのは「生理」だ。小学校での女子だけの保健の授業で子宮の断面図から血の壁が崩れ落ちたのをよく覚えている。嫌だったあの授業。当時女子だという自覚は持ってなかったわたしにとっては、女子だけの秘密を無理やり共有させられたような気がして不快極まりなかった。ひざに顔をうずめてこの教室から消えて無くなりたいと願ったもんだ。 そういう現実とは裏腹にわたしには生理なんて来ないんだ、という祈りのような確信のようなものがあった。だって、女じゃないもん。しかし現実は無残にも突きつけられた。中2ぐらいだったかな、変な頭痛が止まらない日だった。トイレに行くと血が出ていた。しばらくトイレの中で放心状態だった。「わたしも女だったんだ。」 当時のショックっぷりはヒドイもんだった。この世の終わりだと思ってもう死ぬしかないとまで思い詰めたような記憶がある。それぐらい私の中では女を引き受けることに直結している現象だったのだ。一ヶ月目は家族に隠し通せたが二ヶ月目にばれて赤飯を炊かれたのも、か、な、り、ショックだった。(笑)全くめでたくありません!と心で叫びながら食べたっけ。それ以降ずっと付き合わなければならないこの現象が現れるたび、鬱になって大変だった。今でもめんどくさくてイヤだね。でももう堪忍してるけどね。 家族と一緒に生活してる時は自分で生理用品を買わなくてもよかったんだけど独りで暮らすようになってから自分で買わないといけなくなった。FtM諸君は恥ずかしいと言う人が多いけど私はそこまで恥ずかしいと思わない。確かに買いにくい時(女の人が群がって生理用品を見てる時:女子トイレに入る時のような引ける感じ、すいませんねーという感じ)もあるけどそんなに苦じゃない。周囲の人間に「この人生理があるんだ」と思われたところで痛くも痒くもない。あんたにどう思われようと関係ないですから。残念。 生理についての身体感覚は昔と今ではかなり変わったかも。まんこを使ったセックスをするようになってからなぜか生理痛がひどくなった。(汗:その逆の人もいるのに!なぜ!不公平!)今まではただ単に血が流れ出てたんだが、セックスするようになってからものすごい鈍痛が出てきた。薬を飲んぢゃう日もある。それからナプキンからタンポンを使うようになったのもある。あのべちょべちょ感がなくってタンポンはなんて楽チンなんだ!動きやすいし楽だよね。正直、まんこを認めるまではタンポンは怖くて使えなった。穴があるのを意識したくなかったし、まるで他人のもののようにまんこを認識していたし、なるべく考えたくないし、関わりたくなかったのも大きいと思う。自分の身体なのにね。今はまんこの筋肉を鍛えたら生理の血を溜めてしっこのように出すことができる(昔の女の人はみんなそうしてたらしい)というのを聞いて、できるようになりたいと挑戦中。 生理、ということは妊娠できる身体ということも同時に意味している。最近姉たちが続けて出産したのだが、大きなおなかを見たり出てきた子どもを見たりしても、どうも自分の身体と関係を持って見ることができない。拭えない妊娠できる身体との乖離。まんこを認めたり、生理と付き合ったりすることは必ずしも妊娠したいとか子どもができるとかいう認識に繋がらないようなんだ。それは私自身が子どもを孕みたいと思ってないことや、子どもをほしいと思ってないことが大きいのかと思う。どうも私は自分のことを身体的には可能だけれど、育み産む立場だと思ってないっぽい。お酒は消化できるけど、別に飲みたくないという感じかもしれない。ここらへんはライフプランや人生観に深く関わるから身体的なものとは一線を規して考えるところだろう。
●まんこを使ったセックス さっき生理はまんこを使ったセックスをするようになってから随分変わったと言ったが、そこをチャント説明しようと思う。多くのFtMやレズビアンのバリタチがそうであるように、私もセックスの時はタチ(リードする方・やる方)だった。奉仕するだけ。奉仕して相手が気持ちよくなってるのを見てそれを快感とする、みたいな。そして終ったらタチ濡れ(奉仕の快感で濡れたまんこ)をひっそりと拭くのでした。(爆)トイレで拭きながら「あー、ちんこがあればなぁ」とため息をつく。そんなセックス。相変わらず嫌いで嫌悪感でいっぱいのまんこ。このまんこめが!憎憎しさが増す。 そんなある時、転機になったのがアメリカかどっかのFtMのメーリングリストで「アメリカのFtMにはまんこを使ってセックスする人がけっこういる」という情報が流れてたと聞いたのだった。ええー!!あんなマッチョな西洋人(偏見)がまんこを使ってセックスするなんて!!衝撃的だった。今までの自分が揺らぐ事実に気づき始めた。「身体違和さえも、思い込みかもしれない。」 その時既に女か男かどっちかのアイデンティティを持てなきゃGIDじゃない、とかいう神話からは解放はされていたけれど、身体違和というGIDの疾患としての「聖域」については、やはり考えることをしないままだった。病気という大義名分の下で、思考を停止させられていた。そしてこの嫌さはどうしようもないものなのだと、諦めていた。「トランスならまんこが嫌いで当然だ。(まんこが嫌いじゃないトランスはトランスじゃない。)」 衝撃的な事実は私にとっては実のところ、うれしいものだった。というのは、この先一生ちんこをつける気がないのにまんこを嫌いなままでは面倒くさいじゃない。どうせ一生一緒なら好きにならなくても、自分の一部としてそこに居てもいいよ、ぐらいには認めたかったからだ。FtMもまんこを使うという事実で私は正直なところ、「これで、なんらかの努力の結果、まんこから違和感がなくなっても、女呼ばわれされなくてすむ」と思った。私はセクシュアリティの多様性を謳いながら実のところ、「まんこを認める=女である」と強く思っていたのだった!「まんこを認めても、女であるとは限らない」その事実が私のセクシュアリティの在り方をさらに強化した。「この厄介なまんこの嫌な感じ、まんことの犬猿の仲を解消できたら、私は、無敵だ。私から汚点は消える。私を完全に私のものにできる!!」 運良く、丁度付き合っていた相手があまりセクシュアリティの偏見を持っていない人だったのでこの「まんこ仲良し大作戦」に協力してもらえた。偏見というのは、FtMみたいな人間は死んでもまんこを使ったセックスなどしない、とかFtMみたいな人間でネコができるのはFtMゲイだけだとか、そういうことは話題に出したらまずいとか、そういう偏見ね。そんなに偏見を持っていない上に、リバ(ネコもタチもする)だったのがまた適任だった。でも、私はまんこを自分のものにしたいと思いながらもどこかで問答無用の「身体違和」を恐れもした。つまりどれだけ努力しても、私の意思に関係なく、やっぱりまんこは気持ち悪い存在でしかないかもしれないという心配。セックス中に気持ち悪くなって吐くかもしれない。(笑)そんな不安。 実際、そんなことはなかった。(笑)なんだ、こんなもんかよ。というのがぶっちゃけ感想。慣れるまで気持ちよくもなんともなかった。でもセックスだったら気持ちいい方がいいじゃんか!という快楽主義を追加。慣れてきたら普通に気持ちよくなった!慣れない&気持ちいいと感じようとしないと気持ちよくは感じないんだとも学習した。 こうしてわたしはやっといろいろな自分の中の思い込みや偏見をそぎ落として、まんこを自分の身体の一部として獲得した。まるで絶交していた友人と照れながら仲直りしたみたいに。
【休憩コラム】 あたしゃ単なる性別役割拒否なのか?
じゃぁ古典的なフロイト派が言ってたような、GIDは結局「性別役割拒否」ってことじゃんか、と言われるかもしれない。女を引き受けたくないから身体も社会的な役割も否定して男になろうとするのだ、と。言葉面だけなぞるなら、当たっているけど、根本的には違うと思う。GIDが割り当てられた役割を引き受けたくない、というのは事実だ。そして、どうやって女を引き受けさせるか、矯正して女にするかが治療的姿勢であり、今までなされてきた解釈だ。(女という社会的な存在なんだと諦めさせる。女を負えるように訓練させたり。)わたしが言うのはそうじゃない。引き受けないことは単なる拒否をあらわしてるんじゃない。役割・在り方が二つしかないことの無理さを表してるってこと。「あーまだ女になりたくないんだねー、子どもだねー。」という話ではない。性別が二つしかないという前提で下される「成熟拒否」や「性別役割拒否」とは次元が違うんだ。自分を他人に定義されてしまうことからどうにか逃れたい。(他人の付けた定義に飲み込まれてしまいそうな恐怖・屈してしまわされそうな屈辱)自分の身体が持つ意味を自分で決めたい。わたしにとって一旦拒否することは、山盛りに積まれた身体に対するイメージ、意味を解体して、自分にとっての意味をつけなおす過程の一つだったと思うんだ。身体に付けられたイメージが身体違和になっていくことについてはT氏に任せる。
●似非性同一性障害なのか ここでゼッタイにツッコミが入るであろう。「まんこ使いやがったな!! お前はGIDじゃない!FtMじゃない!女だ!」と。ええ、GIDでもFtMでもありませんから。あなたの定義する「女」でもけっこうですとも。性別と戦ってきたからと言って、私は誰かにGIDだと認められたいと思わない。別に他人から似非トランスだと言われてもかまわない。そういうこと言う人たちの仲間に入れてほしいと思わないし、むしろ一緒にされたくない。私のことをどう定義しようと、あなたの勝手だ。そして私が自分のことを何と言おうと、私の勝手だ。自分の身体や境遇に苦しみたければ一生苦しんでいたらいい。オペをしたってホルモン打ったってホンモノの女や男にはなれないんだよ。一生かけてホンモノの女や男になれないことを悔やんで嘆いたらいい。そして世の中の定義する男女に近づくために一生を費やしたらいい。他人に文句を言わずにそれに向かって邁進してほしい。邪魔はしません。 私はただ、楽でありたいだけだ。自分の在りたい姿やスタイルを肯定したいだけだ。きっとみんな、ただそれだけのハズだ。それを誰かを否定することで自分を肯定したいだけだ。自分にしか自分の在りたい姿なんてわからないのに、他人と優劣を競うなんてお門違いだと思う。そんな人たちはみんなで「女らしさ・男らしさ選手権」でも作って厳密な規定のもとで競えばいいと思う。 少し話題を巻き戻すけれど、GID・トランスなら「身体違和」があって当然なのか?甚だ疑問になってきた。私も過去にこの身体違和を肯定しようとして「幻肢」(無くなった手足がまだあるように感じる)を使って説明づけようとしていたが、今となっては無理があると思う。そもそも、GIDの規定にあるように「身体的には正常な男女」なのだから身体違和は無くて当然という考え方もできるじゃん。こうなるとGID業界に蔓延っているあらゆる暗黙のジョーシキが怪しさでいっぱいになってくる。私たちのたくさんの性別違和を訴える文句は、社会から求められた、しかるべき言い訳なのかもしれない。私たちの言葉ではなく。結局は多数者を肯定するような・・・。(怖) 私が自分の身体感覚を、自分自身を、取り戻したいと思ったのは、満ち溢れる自己否定感に悩まされたからだと思う。逃げ場のない思考・襲ってくる自己嫌悪・心身症・鬱・自殺願望。自分のことを認めたくても認められない。社会通念として認められないあり方。私は自分の物差しを持つことを許されていなかった。(自分でも許してなかった。) 「叶いもしない夢を見るのはもう、やめにすることにしたんだから、今度はこの冴えない現実を夢見たいに塗り替えればいいさ。」(Mr.children「蘇生」より) 死なないで生きていこうと思ったとき、私はあらゆる価値観を捨てて、社会や世間を敵に回しても、ホントの意味で、楽になろうと決心できた。
【拝啓 まんこ殿】 あなたのことをちゃんと考えるようになってからもう3年が経ちました。それまでワケのわからない理由をこねくり回しては嫌い続けてごめんなさい。性欲は減退の一途をたどっているけれど、これからもあなたと仲良くしていきたいと思っています。まだはっきりいって私との関係はギコチナイけれど、私はあなたを慕っているつもりです。この先、ホルモンを打つことになったとしても、ちんこは付ける気はありません。だから一生の付き合いとなると思います。 これからもよろしくお願いします。 るぱん4
●世話の焼けるまんこ 友人に包茎フェチのゲイがいるんだけど、その人が言うには包茎のちんこは「世話の焼けるちんこ」らしい。世話がやけるんだって、ちんこが。なんかその言い方がかわいらしかったので使ってみたくなった。世話の焼けるまんこ。 実際、私のまんこはよく性病になる。自己免疫が弱って自分の持ってる菌に負けるやつだ。(カンジダ症)気がついたら治ってるんだけど(ちゃんとは治ってないのかもしんない・・・。)そういう時は世話が焼けると思う。かと言って婦人科に行くのはめんどくさい。どうしようもなくなったら病院行こうかな。FtMみたいな人はまんこの相談を誰にしているんだろう。普通にまんこについて話すことがないのに、病気とかまんこの具合が悪くなったらどうしてるんだろう。語られないから問題ないんだろうとは思いがたい。返ってFtMみたいな人たちのまんこ事情が心配になる今日この頃だ。話せない悩みを抱えるのはストレスだと思う。話すすべを与えられてこなかった中年サラリーマンが自殺に追い込まれるように、思い詰めてしまわないことを祈る。
●最後に 私はオペやホルモンを否定はしてない。やりたければやったらいいと思う。でもその理由が仕方なしに、例えば世間がこういう身体じゃないと女(男)と認めてくれないからといった消極的なものだったら其の後大変じゃないかと思う。(別に知ったこっちゃないからいいけど。)世間の風はいつでも変わる。誰かに合わせようとしたら人生なんて一瞬で終ってしまいそうだから。もっと積極的に、まるで美容整形のように自分のスタイルを求めてやる方が、乱暴な言い方だけど、むしろ健康的だと思うんだ。(依存症は違う気がするけど。) 繰り返しになるが、私はGIDだとか男だとか誰かに認められたいとは思っていない。対外的に認められるよりも、私が自分の持っているものを、思い込みやシキタリやらしさや在るベキ姿などに惑わさずに、自分のものだと思えるようになりたい。ありたい姿でありたい。楽して自分のスタイルでいたい。まんこという大きな壁は今、親友とまではいかないけれど、なかなか話せる友達ぐらいまで仲良くなったと思う。超えるようにしむけられていた壁は越えないでよかった。私は汚らわしいとされる「汚点」を完璧ではないにしろ、ほとんど、回復した。受け入れられない部分のない身体はそれだけで快適だ。 2005-2 おわり |
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